VERMILLION

裁かれた罪 裁けなかった「こころ」―17歳の自閉症裁判

裁かれた罪 裁けなかった「こころ」―17歳の自閉症裁判

「自閉症裁判」に続いて発達障害と刑事裁判の本。
この節に筆者の述べたいことは集約されるように思う。

社会的に許容されなくてはいけないもう一つのこと


すでに書いているが、被害が甚大であればあるほど加害少年は内外ともに複雑な事情を有し、
精神的混乱も大きい。それが少年事件の特徴である。
寝屋川事件や板橋の事件の判決に見られるように刑事裁判所は、
更生にとって条件整備の整わない場所へ(自閉症圏のハンディを持つ少年にとってはとくにそうである)、
それと知りつつ送り込まなければならないというジレンマを、今後、ますます抱え込むことになる。
そして間違いなく、一〇年、十五年ののち、彼らは社会に復帰してくる。
いわば"社会の安全のため"としてなされているはずの"厳罰化"が、
このままでは逆に、将来のリスク要因を増大させているとも言えるのである。
ではどうすべきなのか。保護処分が本当に「社会的に許容」されない選択であるのかどうか。
家裁が原則逆送を無原則に決定する傾向が強くなれば、
家庭裁判所それ自体の役割が有名無実化していくことになりかねない。
また、もし許容できないと社会が判断するのであれば、
現実的処方としては、少年刑務所における処遇体制の充実が次の選択肢になる。
ただし少年刑務所において更正教育を充実させるためには、多大な時間と人的労力と、経済的コストを必要とする。
それは当然、私たちの税金で負担されることになる。そのことも「社会的に許容」されなければならない。
少年審判における"厳罰化"の方向とは、安全のために経済的な負担に耐えるか、
それを避けたいなら将来の不安要因の増大に耐えるか、どちらかを選択することを意味している。
それが、私たちの社会が向かっている方向である。

少年犯罪=発達障害のような単純で危険な連想ゲームを流行させたい
バカなジャーナリストもいるようだが(ダメな方の草薙さんのこと)、
了知不可能な犯罪が増えていることは確かだ。
少年犯罪の数はメディアで言われているほど増えていない割に、である。
そもそも殺人をしようなどという動機がわかるほうが変なのだが
それでも成年による殺人事件というのは背景なんかがわかれば
動機というのも了知可能なことが多い。


この本では事件背景や自閉症を詳細に書いた「自閉症裁判」と異なり、
犯行少年の今後に関する記述が多い。被害者や遺族にとっては、
ハンディを背負っていようがいまいが犯人であることには違いはないから、
ストレートな被害者感情を持っていて当然である。
しかし、社会にとってはどうだろうか。死刑でない限り犯人は社会に出てくる。
その時「凶暴性」を持ったまま社会復帰したとしたら?
罰を与えるのは簡単だが、一五年もすれば殆どの犯罪者というのは社会復帰をしてくる。
更生させることは誰にとってのメリットとなるのか、ということを考えるべきではないだろうか。
なにも施策をせず服役させて一五年経ったら社会に出す、ということこそ無責任である。
因みに私は所謂厳罰化や死刑に関しては賛成論者である。
どうしようもないクズもいる。罪を憎んで人を憎まずなんてことは、ない。