刑法11条1項

(略、ワイドショーを)見ながらふと気付いた。ここには自分という一人称単数の主語がない。
スタジオに並ぶ全員の主語に、いつのまにか「本村さん」が憑依している。
死刑判決を受けた元少年の存在すらも消えている。
メールのやりとりではあるけれど、本村洋さんとは多少の付き合いがある。
聡明で高潔な人だ。死刑制度を推進するかのような立場に自分が置かれていることに、
内心では強く葛藤もしている。
でもほとんどのメディアにおいては、そんな煩悶は、当然のように捨象されている。
(略)(地下鉄サリン事件以降)高揚した危機管理意識は共同体における同調圧力を強化する。
(略)ならば考えねば。本当に治安は悪化しているのだろうか。
実のところ昨年の殺人事件の認知件数は、戦後最低を記録している。
最も多かった1954年の三分の一だ。つまり治安は圧倒的に良くなっている。
(略)いずれにせよ、これで死刑判決の基準は大きく転換した。
判決の文脈を読めば、永山基準における「死刑はやむを得ない」場合が、
「死刑を回避する事情を見いだせない」場合に変化した。
つまり、前提が、まずは「死刑ありき」に転換している。(以下略)


山陰中央新報 2008年4月23日 30面「緊急識者評論 森達也

死刑に賛成か否かはさておき、
元少年を死刑にしろ」みたいな雰囲気に違和感を覚えないわけではない
誰も彼もが口を揃えて死刑だと言う魔女狩りのようと言えなくもない。
勿論その「誰も彼も」に私も含まれている。
今回は最高裁無期懲役を破棄し
高裁で審理の差し戻しをすることになったので
或る意味「死刑ありき」で判決文を考えたんじゃないかと確かに思った。
裁判というのは一種のゲーム(言い方を変えると検察と弁護士の試合)であり
真実なんていう曖昧で個別的なものを捨象した儀礼だと思う
特にこの裁判を見ているとそう思う。
一体どこに当事者がいたのか判らなくなる局面もあった。
弁護士の懲戒請求事件がまさにそれだ
死刑判決を下すということは、人権屋さんの言葉を借りれば国家が人を殺すということだ
それが民意であるなら、本村さんの背負った十字架を
同じように人々も背負わなければいけないのではないだろうか
本村さんの立派だと思うのは
「私は三人(守れなかった母子と加害少年)を殺した」と記者会見で言ったことに表れるように
自己の立場に無自覚でいないことだ。
今回の死刑判決に個人的にはおおむね賛成なのだが、
それで思考停止状態というのは情けない。
死刑廃止するにせよ、死刑存続するにせよ、
死刑/代替刑ということについて悩むことは終わらないと思う。


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