反哲学

反哲学入門

反哲学入門

途中までしか読んでいないけれども
良いペースで読み進められる
かつて誤って哲学などというものを学んだ僕だが
寝食を忘れて読める本というのは
哲学書の一部とごく少しの小説である現状を考えると
活字中毒などという人が信じられない)
あまり悪くない選択肢だったかもしれないと思う

哲学の本は、あるタイプの人間にとっては、
こんなふうに夢中になれる対象なんです。
わたしにとって、ハイデガーの本は、
読み終わるのが惜しいような気のするものでした。(略)
一方、フッサールの「イデーン」は退屈でした。
一日五頁と決めて読んでいったから読了したものの、
義務感で読み進めているような感じでした。

あるタイプの人間にとってはここは笑う部分。

デカルトの言う「理性」はそんなものではありません。
それは、たしかにわれわれ人間のうちにあるけれど、
人間のものではなく、神によって与えられたもの、
つまり神の理性の出張所ないし派出所のようなものなので、(以下略)

日本における西洋哲学の、特に中世哲学のわかりにくさというのは
ここに集約されるように思う。そもそもウサギ小屋に神はいない。
冗談はさておき、神というものをどう捉えるかから
日本の哲学科の学生は一つの挫折を経験するものだ
その上、理性という一つの言葉でさえ
カント、ライプニッツデカルト、ロック、総ての人で意味が異なってくる
中世以降は衰退の歴史と捉える人もいるにはいるが…


日本で哲学の根付かなさというのは
果たしてそれだけなんだろうか。少なくとも読んだところまでは
どうもそこ一点を追求しすぎているような気もする
あとがきによると

(談話というのは、)話が面倒になるのを避けようとして、
適当なところで切り上げようとしてしまいます。

このスタンス自体は嫌いじゃない。